幼なじみの恋



「お兄ちゃん、ボク、絶対お兄ちゃんに相応しい女の子になるよ。ボクが女の子になったらお嫁さんにしてくれる?」
その子は潤んだ目で僕の顔をジッと見つめた。

谷岡弘樹は久しぶりに夢を見た。
久しぶりといっても昔から時々見る夢だ。
この夢のときだけはどういうわけか目覚めたときもはっきりと覚えていた。
そんなことがとても不思議だった。

夢に出てくるのは幼いころ近所に住んでいた中岡昌哉くんだ。
弘樹が小学生になったころから何となく一緒に遊ぶようになった。
きっかけは覚えていない。
たぶん昌哉くんのお母さんに「一緒に遊んであげてね」とか頼まれたんだと思う。
昌哉は弘樹より3歳下で弘樹にとてもなついていた。
どこに行くにも後にくっついていた。
決して速くない足で一生懸命についてくる様子がとても可愛かった。
弘樹は昌哉くんのことを『マー坊』と呼んだ。
マー坊は弘樹のことを『お兄ちゃん』と呼んでいた。
弘樹も一人っ子だったので、弟のように可愛がった。
二人は本当の兄妹のように仲が良かった。

しかしそんな二人にも別れの日はやってきた。
昌哉の父親の転勤のためだったと思う。
昌哉は引っ越しの日にわざわざ弘樹の家にやってきて、あの台詞を言ったのだ。
背が小さく、確かに女の子のように可愛い顔だった。
そんな顔をしている上、涙目であんなことを言われて、弘樹自身ドキッとした記憶がある。
そのせいか時々そのシーンを夢で見るのだ。
決して嫌な思い出ではなかった。
どちらかと言えばほのぼのとするいい思い出と言えた。
「久しぶりに見たな。マー坊、元気にやってるかな」
弘樹は昌哉のことを懐かしんだ。


このとき弘樹は大学生になっていた。
弘樹は生まれてから高校を卒業するまでずっと両親と住んでいた。
大学も通学圏内だったので親元から通うことはできた。
しかし、弘樹の希望もあり、大学近くのマンションから通っていた。
弘樹をマンションから通わせるくらいお金には苦労していない家庭であるからこそ、そんなわがままが実現できたのだ。

親にわがままを聞いてもらったこともあり、弘樹は真面目に勉強した。
その甲斐あって1年から3年まで順調に単位を取得してきた。
おかげで4年はゼミにさえ出れば無事に卒業できるようになっていた。
そんな3年の最後の3月の終わりのころのことだった。

弘樹が大学から戻ってくると、マンションの前に女の子が立っていた。
小柄で高校生くらいの女の子だ。
髪が肩より少し長い。
目が大きくした可愛く、弘樹の好みの女の子だった。
可愛いワンピースを着て、そこから伸びる脚がとても魅力的だった。

弘樹が近づくと、その女の子が走り寄ってきた。
「お兄ちゃん!」
その娘はなぜか弘樹に向かってそう言って弘樹に抱きついた。
「えぇっと、お兄ちゃんって僕のこと?」
鼻腔を女の子の甘い香りがくすぐった。
「うん、そうよ。お兄ちゃん、あたしのこと、覚えてないの?」
目の前の女の子が悲しいそうな表情をした。
申し訳ない気持ちになったが、弘樹のことを『お兄ちゃん』と呼ぶような女の子は思い浮かばなかった。
思い浮かぶのはつい最近夢で見たマー坊くらいだ。
「ごめん。誰か思い出せないよ」
「そうなの?」
本当に悲しそうな表情だ。
弘樹は申し訳ない思いだったが、どんなに頑張っても思い出すことができなかった。
「せっかく約束通り、ボク、お兄ちゃんのお嫁さんに相応しくなれたと思ったのに?」
ボク?お兄ちゃん?相応しくなる?
このキーワードに当てはまるのは彼しかいない。
「マー坊!?」
目の前の女の子の表情が明るくなった。
「やっと思い出してくれたんだ」
まさにピョンピョン跳ねるような感じで喜んでいた。

「だってマー坊は男だったろ?一緒に風呂だって入ったことあるし、立ちションだってした。確かに男だったぞ」
「だから言ったでしょ?お兄ちゃんに相応しい女の子になるって」
「えっ!どうやって?」
「そんなことどうだっていいじゃない。そんなことより、あたし、4月からお兄ちゃんと同じ大学に行くことになったんだよ」
「あ、そうなんだ」
ふと周りの目が気になった。
こんなところで話すような話じゃないのかもしれない。
「……立ち話もナンだから、ナンだったら僕の部屋に行く?」
「うん♪」
弘樹は自称『マー坊』を連れて部屋に入った。

「へえ、お兄ちゃんの部屋って結構綺麗に片付いてるんだ。せっかくあたしが片付けてあげようと思ってたのに」
「そんなことより君がマー坊だなんて信じられないんだけど、本当にマー坊なのか?」
「うん、そうよ」
何も悪びれる様子もなく、ニコニコ笑っている。
確かに顔にはあのころのマー坊の面影が残っている。
しかし絶対的に違う点がある。
マー坊は男であって、目の前にいるのはどこをどう見ても女の子だ。

「でも君は女の子だろ?マー坊は男なんだ」
「だったらこれを見て」
女の子はワンピースを脱ぎ出した。
キャミソール姿になった女の子はショーツを下げて、キャミソールを捲くるようにして弘樹にお尻を見せた。
「右のお尻に傷跡があるでしょ?これはお兄ちゃんと遊んでたときに釘の刺さった木片があって、そこに尻もちをついたせいで、釘がかなり深くまで刺さっちゃったの。覚えてる?」
今まで忘れていたが、確かにそんなことがあった。
刺さったまま急いで家に連れて帰って、そのあと救急車がやってきたりして大騒ぎになったんだ。
自分が傷つけたわけでもないのに、自分がマー坊を傷つけたような気がして、しばらくの間塞ぎ込んでたんだっけ。
そこから助けてくれたのは他ならぬマー坊だった。
次の日に笑顔で遊びに来てくれて、子供心に救われたように感じたんだっけ。
「本当にマー坊なのか?」
「うん、お兄ちゃん、今のあたしって綺麗かな?」
そう言って肩にかかったキャミソールのストラップを外した。
キャミソールが足元に落ちた。
ブラジャーと少しずらしたショーツだけになった。
弘樹はその姿から視線を外せなくなっていた。

マー坊が後ろ手にブラジャーのフォックを器用に外した。
すると決して大きくないが形のいい乳房が現れた。
弘樹にとって同世代の女性(?)の乳房を見るのは生まれて初めてのことだった。
恥ずかしいような照れたような思いがあったが、やはり視線はそのままだった。
さらに少しずれたショーツは完全に脱ぎ捨てられた。
今、目の前には全裸の女の子が立っていた。
弘樹の視線は完全に釘付けになっていた。

「マー坊」
弘樹は何とか声を出した。
「今は茉奈っていう名前なの。だからお兄ちゃんにもそう呼ばれたいな」
「茉奈…ちゃん……」
「"ちゃん"はつけないで茉奈って呼んで」
「茉奈……」
「お兄ちゃん!」
そう叫んで全裸のまま弘樹に抱きついた。
そして唇を押し当ててきた。
弘樹にとっては初めてのキスだった。
だからどうしていいのか分からなかった。
恐るおそる背中に手を回し、されるがままにキスされていた。

茉奈の手が弘樹の股間を触ってきた。
「お兄ちゃんのここ、大きくなってる」
「そりゃこんなことされてるんだから…」
弘樹は咄嗟に言い訳がましいことを言った。
「これってあたしに興奮してるってことだよね?」
「あ…うん…」

弘樹も男だ。
こんな可愛い子に誘われて拒むことなんてできるわけがない。
そのまま床に押し倒して、覆い被さった。
そして乳房を揉み、もう片方の乳房を舐めた。
「お兄ちゃん、背中が痛い…」
フローリングの床のせいだ。
「ベッドに行くか?」
「うん」
二人で隣の寝室に入った。
セミダブルのベッドに茉奈が潜り込んだ。
さっきは勢いで押し倒したが、間があいてしまうとどうしていいのか分からない。
何となく気まずい空気が流れた。

「お兄ちゃん、来て」
茉奈が痺れを切らしたように弘樹を求めた。
弘樹は茉奈の言葉にしたがうように再び茉奈に覆い被さった。
茉奈の身体は柔らかかった。
弘樹は夢中で茉奈の身体に貪りついた。
湿った秘所に自分のいきり立った性器を押し込んだ。

目の前で茉奈は痛そうな顔をしている。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。お兄ちゃんにこうしてもらうのが夢だったの」
健気に笑顔を向ける茉奈が愛おしい。
マー坊が過去に男だったとしても、そんなことはもうどうでもよくなってきた。
今目の前にいる女の子が弘樹にとっては全てだ。
茉奈の中は本当に気持ちいい。
セックスにはまる奴がいることも理解できる。
少し動かしただけでも出そうだ。
予想通り数回動かしただけで射精してしまった。
「ごめん。僕、初めてなんだ」
「お兄ちゃんの初めての相手になれて嬉しい」
しかし茉奈はまだ不満そうだった。
「まだできそう?」
「う〜ん、どうだろう?」
「あたしが大きくしてあげる」
茉奈が弘樹のペニスを銜えた。

再び入れた。
1回出したせいで、すぐには出そうになかった。
何度も腰を振った。
「お兄ちゃん、何か変。おかしくなりそう…」
弘樹は茉奈の中に出した。
そして性器がつながったまま、眠ってしまった。


胸が重い。
誰かが覆い被さっているのだ。
(確か茉奈とセックスして、そのまま眠ったんだっけ?)
弘樹が上だったはずなのに、いつの間に体勢が入れ替わったんだろうか。
とにかく離れようと身体を動かしたときだった。
「あんっ」
身体から何かが抜けるような感じがあって、その感触のせいで思わず声が出てしまった。
女みたいな声だった。
(何だ、今の声は?僕が出したのか?)
そのときになって上に覆い被さっていた者の顔が見えた。
弘樹自身だった。

(ええ!僕?)
弘樹は慌てて自分の身体を確かめた。
胸には小振りだが確かに女性の乳房が存在していた。
そして股間には見慣れたものがなくなっていた。
女の子のような茂みが存在しているだけだった。

「おい、目を覚ましてくれよ」
「う…うーん、どうしたの?」
目の前の弘樹の顔をした男性はまるでおかまのようだった。
「お前、マー坊か?」
「えっ、お兄ちゃんなの?」
二人はそれぞれ自分の身体を確かめた。
「入れ替わったのか!そんな馬鹿な!」
「どうしてこんなことが起こるの?」
お互い自分の身体でないことを確認して呆然となった。

「元に戻ろう」
急に弘樹が叫んだ。
「でもどうやって?」
「もう一回セックスしたら戻るかもしれないだろ?」
「本当に?」
「そんなの、やってみないと分からない。でもやらないとずっとこのままの状態が続くだろ?」
「うん、分かったわ」
「それじゃやろう」
そう言ったまま二人は動きが固まった。
さすがに自分相手に抱き合うことは躊躇われたのだ。

「マー坊、早くやろう」
弘樹は腕を広げて茉奈を促した。
「う、うん……」
弘樹になった茉奈はゆっくりと弘樹に覆い被さってきた。
そしてキスしようと顔を近づけてきた。
(…気持ち悪い……)
いくら見慣れた顔とは言え、自分の顔が近づいてくるのは気持ちのいいものではなかった。
「キスはいいんじゃないか?」
弘樹は顔を背けてそう言った。
「そう?それじゃ」
茉奈は弘樹の乳房を揉み始めた。
「あたしのおっぱいって軟らかいのね」
今まで自分の胸に存在しなかったものの感覚に弘樹は戸惑っていた。
確実に揉まれているという感覚が脳に伝わってくる。
意識していないと声が漏れてしまいそうだ。
茉奈が乳首の先を指で擦った。
「ぁんっ」
自然と声が出てしまった。
「あたしって乳首が敏感なの?感じるでしょ?」
茉奈の指が執拗に乳首に触っていた。
「んんんんん……」
弘樹は声が出そうになるのを必死に堪えていた。
「お兄ちゃん、感じるんなら我慢せず声を出していいんだよ」
「誰が…んっ…」
弘樹は声を出すのを必死に我慢した。
胸の先に温かいものが触れた。
茉奈が乳首を銜えたのだ。
舌を転がすように絡んでくる。
「…ぁぁぁぁぁ……」
もう我慢できない。
弘樹は感じるままに声をあげた。
一旦声をあげると堰を切ったように声を上げ続けた。
背中に快感の電流が流れる。
弘樹は茉奈の頭をしっかりと抱き締めた。

茉奈の手が股間に伸びてきた。
(恐い!)
弘樹は自分でも理解できない不安を感じた。
不安というよりも恐怖に近いものだった。
弘樹は手の侵入を防ぐべく脚をピタッと閉じた。
「お兄ちゃん、力を抜いてよ」
「そんなこと言ってもやっぱり無理だよ」
「でももう一回セックスすれば元に戻るって言ったのはお兄ちゃんでしょ?」
弘樹は茉奈の股間に手を伸ばした。
「あれ?お前だってまだ硬くなってないじゃないか?僕が硬くしてやろうか」
茉奈のペニスは大きくはなっていたが、それほど硬くなっていなかった。
俊樹がペニスを握って擦ってやった。
「ああ、気持ちいい……」
茉奈の口から喘ぎ声が漏れた。
それでもなかなか硬さが増すことはなかった。
ついさっき2回も射精したせいだろう。
しばらくペニスを握っていたが、やがてその手を止めた。
「今日はやめよ」
「…だったら戻れないけどいいの?」
「そうは言ってもあんまり硬くならないし、僕も心の準備できてないし」
「……うん、そうね」
結局その日の夜のセックスするのは諦めた。
弘樹と茉奈は手をつないで眠った。


味噌汁の匂いで目が覚めた。
こんなふうに目が覚めるのは久しぶりだ。
少し頭がボォーッとしている。
ダイニングキッチンに行くと、男が朝食の支度をしている。
「おはよう」
その男の顔は自分だった。
そこで記憶が蘇った。
自分が茉奈になったことを。
「お兄ちゃん、服くらい着てよ」
弘樹はあわてて鏡の前に走った。
まだ茉奈のままだった。
(あーあ、夢じゃなかったんだ……)
朝から憂鬱な気分になった。
しかも全裸だったため、女の身体であることも再認識させられた。

「お兄ちゃん、御飯食べるでしょ」
「あ、ああ。その前にシャワー浴びてくる」
昨夜の情事のため内股の辺りが気持ち悪かったのだ。

身体を叩く熱い湯が気持ちいい。
弘樹は女の身体について知っているわけではないが、この身体は本当に女の身体のように思える。
女性ホルモンを摂っていると、肌がきめ細かくなるのかもしれない。
男の身体と明らかに違う。
本当に女だ。
しかし幼い頃、確かに男の子だった。
マー坊はどうやって女になったのだろう?
聞きたいがどう聞けばいいのか想像できなかった。

そんなことを考えてると脱衣場から声がした。
「着替え、ここに置いとくね」
茉奈だった。
「ありがとう」
弘樹はシャワーを浴びながら礼を言った。

浴室から出てバスタオルで全身を拭いた。
身体を拭きながら、置かれている服を見ると、そこには女物の下着と服が置いてあった。
「マー坊、これ、女の服じゃないか」
弘樹は大声でダイニングキッチンに向かって叫んだ。
「だって今お兄ちゃんはあたしの身体になってるんだから、それを着て」
当たり前の答えが返ってきた。
そう言われればそうか。
それにしても手に取ったショーツは小さい。
とてもお尻を隠せるとは思えない。
穿いてみると、案の定お尻が半分ほど出ているようだ。
そして悪戦苦闘の末ブラジャーを留めた。
さらにキャミソールを着てから、置いてある服を見た。
薄い青地に小さな花柄のついた上下のブラウスとスカート。
あまり普段着っぽくない。
どこかに出かけるつもりなのだろうか?
弘樹は素直に出されたものを着て、鏡に自分の姿を映してみた。
可愛い。
文句なしに可愛い。
ミニスカートから伸びた脚が綺麗だ。
これが自分が着ているのでなければ見惚れるだろう。
ただそれを着ているのは他ならない自分なのだ。

弘樹はダイニングキッチンに戻った。
そして一緒に朝食を摂った。
「あたしになったお兄ちゃんって可愛い」
元の自分の顔が弘樹のことをジッと見ている。
今の服装を見られるのは恥ずかしい。
そんな仕草が余計に弘樹を可愛く見せた。
「うるさい。僕にこんな恰好させてどうしようってんだよ?」
弘樹は可愛いと言われたことが嬉しかった。
それを悟られないように怒ったように言ったのだ。
「だってお兄ちゃんはあたしなのよ。あたしがあたしの服着て何かおかしいの?」
「い、いや、そんなことはないけど…」
「でしょ?」
「どこかに出かけるつもりなのか?」
「うん、入学式の前に大学を見ておこうと思って。お兄ちゃん、案内してくれる?」
「なるほどね」
あらかじめ大学を見たいというのは理解できた。
しかし僕も出かけることになるのだ。
「僕がこの恰好で外に出るなんて絶対無理!」
「どうして?可愛いのに…」
「だから僕がこの恰好が問題なんだって」
「全然問題じゃないって。ねっ、行こうよ」

結局一緒に出かけることになった。


この季節にはまだ肌寒い。
着せられた服だけではとても外出は無理だ。
そのことを茉奈に訴えると「分かってるわよ」というような顔をされた。
「もちろんスプリングコートくらいあるわ」
若草色のコートを手渡された。
コートを着ると膝の辺りまで隠れた。
露出度が下がったことで少し気持ちが落ち着いた。
「ただしストッキングとかはなしよ。だってそのほうが綺麗に見えるから」
茉奈の視線は弘樹の脚に絡みつくようだった。
何だか気味悪くすら感じた。
「何か穿かせてくれよ。寒いじゃないか」
もちろんそれは寒いからだけではなかった。
何か身につけることができれば気になる視線が軽減するように思えたのだ。
「おしゃれのためには少しくらい我慢するものよ」
弘樹の抗議は全く聞いてもらえなかった。
靴がハイヒールでなくスニーカーだったことがせめてもの救いだった。

家を出ると茉奈は弘樹を手をつなごうとした。
弘樹はその手を振り払っていた。
大学に着くまでその攻防が繰り返された。

大学に着くと、少し離れたところから男性が手を振りながら、二人に近づいてきた。
同じゼミの岩山琢磨だった。
「谷岡、誰だ、その子?」
岩山が茉奈に向かって話しかけた。
一瞬戸惑った弘樹だったが、それは当然のことだった。
弘樹は今は茉奈なのだから。
「俺の彼女。茉奈って言うんだ」
茉奈が顔色を変えずに言った。
肝が据わっているのだろうか。

「誰が彼女だ!」
弘樹は小声で抗議した。
「いいじゃん、別に」
茉奈も小声で言い返してきた。

「お前、いつの間にそんな可愛い彼女作ったんだよ」
「可愛い?」
茉奈が照れたように言った。
「どうしてお前が照れてんだよ。変な奴だな」
岩山が変な物を見るような目で茉奈を見た。
「ところで何しに来たんだ?」
「彼女、今度この大学に入学するんだ。それで大学を案内してくれって頼まれてさ」
「そうか。それは仲の良いことで。それじゃ頑張ってな」
岩山が立ち去っていった。

「頑張ってって何を頑張れって言うんだろうね?」
茉奈は何だか嬉しそうだ。

足取りが軽やかだった。
初めての大学で茉奈ははしゃいでいたのだ。
大学の食堂の味なんてたかが知れているのにものすごく美味しそうに食べていた。
食べ終わるとあちこちを歩き回った。
はしゃぎ回る男とその後を追う女の子。
その姿は端から見るとバカップルのようだった。
それにしても疲れた。
慣れないスカートというのがその疲れに拍車をかけたのだろう。

「夕食も大学で食べようよ」
「いや、僕はもう帰る。もう疲れたし」
弘樹は茉奈のことには構わず帰路についた。
「待ってよ。一緒に帰るからさ」
茉奈が慌てて弘樹を追いかけた。


弘樹は疲れ切っていた。
だからマンションに戻ると、すぐにリビングのソファで横になった。
「ちょっと待ってて。すぐに晩ごはん作るから」
茉奈はすぐさま料理を始めた。
「お兄ちゃん、ごめんね。初めての大学でちょっとはしゃぎ過ぎじゃって」
茉奈はチラッと弘樹のほうを見た。
「お兄ちゃんは今あたしなんだから、もうちょっと女らしくしてくれないかな、お願い」
そう言われて弘樹は今の自分の恰好を確認した。
知らないうちにスカートが捲れ上がっていた。
弘樹は黙ってスカートをなおした。

夕食を摂りながらも弘樹は黙ったままだった。
「お兄ちゃん、怒ってる?」
茉奈が弘樹の顔色をうかがった。
「いや、別に。疲れてるだけだよ」
実際怒っているわけではなかったが、話す元気すらないという状態だった。

「お風呂、入るでしょ?」
「いや、湯船にお湯を入れるのを待ってられないからシャワーでいいよ」

弘樹がシャワーを浴びて出てくると、女物のパジャマが置いてあった。
弘樹は文句も言わずにそのパジャマを着た。
今の自分に合っているのは茉奈の服であることは間違いないのだ。

弘樹はまっすぐ寝室に入り、そのままベッドに倒れ込んだ。
そしてそのまま眠りに落ちた。

胸を触られている感触で目が覚めた。
茉奈がパジャマの上から乳房に触れていたのだ。
「起こしちゃった?」
茉奈が触れていた手を離した。
「お兄ちゃん、私、早く元に戻りたい…」
「あ、そうだな」
「今日は大丈夫?」
「ああ、大丈夫。僕も覚悟を決めたよ」
茉奈がパジャマを脱がそうとした。
弘樹はそれを助けるような体勢をとって脱がせやすいようにした。
弘樹が全裸になると、茉奈も立ち上がって全裸になった。
そして弘樹に覆い被さってくると、乳房に触れた。
弘樹は目を閉じた。
茉奈が弘樹の乳首を舌の上で転がすように舐めた。
「…ぁ…ぁん………」
最高に気持ちがいい。
無意識に出た声に恥ずかしい思いがした。
茉奈は乳首を舐めながら、弘樹の股間に手を伸ばしてきた。
弘樹は無意識に股を強く閉じた。
茉奈がやや強引に股の間に手を入れてきた。
すでにもうぐっしょり濡れていた。
内股に触れられると弘樹は脚の力が入らなくなった。
茉奈が素早く両脚の間に身体を入れてきた。
そして肩でかつぐように両脚を持った。
ペニスを濡れていた部分にあてがった。
「お兄ちゃん、いくわよ」
茉奈のペニスが入ってきた。
「お兄ちゃん、大丈夫?痛くない?」
「ああ、大丈夫。痛くないよ」
少し痛みがあったが、我慢できる程度だ。
「でもあたしの中ってあったかいのね。すごく絡みついてくる感じがするわ」
弘樹にとってはすごく熱いものが挿入されている感じがしていた。
それが脈打っているのを感じると何だか不思議と満たされているような気がする。
「あっ。今締めつけてきたわ」
弘樹にはそんな意識はなかったが、弘樹の女性器が茉奈のペニスを締めたようだ。
「お兄ちゃん、それじゃ動くわね。痛かったら言って」
弘樹の顔を見ながら、茉奈がゆっくりゆっくり腰を動かし出した。

(あ…これはやばいかも……)
茉奈の腰の動きとともに押し寄せる快感に弘樹は戸惑った。
男性として初めてだった昨日も気持ち良かった。
それでもそれなりに頭が働いた。
しかし今はあまりの快感の強さに何も考えられない。
頭の中は真っ白になった。
「ぁ…ぁ…ぁ…ぁ…ぁ……」
そんな声が自分の口から出ていることにしばらく気がつかないほどだった。

ふと茉奈が動きを止めた。
せっかく快感を享受していたのに…。
そんな楽しみを急に取り上げられた弘樹は恨めしげに茉奈を見た。
「お兄ちゃん、もっと強く突いて欲しい?」
自分が女の快感を楽しんでいることが茉奈には伝わっているのだ。
そう思うと、恥ずかしさで茉奈の顔を真っ直ぐ見ることができなかった。
茉奈にはそんな弘樹の反応が可愛く思えた。
「お兄ちゃん、可愛い」
そう言ってキスしてきた。
拒絶する間もなかった。
キスするまでは自分にキスされるなんて気持ち悪いと思っていた。
しかしいざキスされるとキスさえも気持ち良かった。
元の自分とのキスでも何の問題もなく受け入れた。
むしろ弘樹のほうから茉奈の舌を求めるほどだった。

「お兄ちゃんって積極的だね」
そんな茉奈の言葉に我に返った。
「い…いや、そんなつもりじゃ…」
「でも、気持ちいいんでしょ?」
「…そんなことない」
「だったらもうやめる?」
茉奈がジッと顔を見た。
弘樹は何も言わなかった。
やめて欲しくはない。
しかし自分から求めるなんてことはできなかった。
だから何も言えなかったのだ。

「ふふふ…」
茉奈は意味ありげな笑みを浮かべた。
弘樹から求めるような言葉が出てこないことは分かっているのだ。
茉奈は弘樹の腰に手をあてた。
そしてさっきより強く腰を動かした。
「あ…すご……」
茉奈の動きがどんどん激しくなってきた。
「あああああああ…おかしくなり…そう……」
「お兄ちゃん、いつでもイッていいのよ」
茉奈がどんどん腰を打ちつけてきた。
「あああ……イキそう……」
茉奈がゆっくり大きく、そして強く腰を打ちつけた。
「あ…あ…あ…あ…あああ……」
膣の中に熱いモノが流れ込んできた。
頭の中が真っ白になり静寂が訪れた。
それでも快感は確実に身体に広がっていった。
「あああああ……」
身体の中に出された精液は身体の奥に入っていくように感じた。
快感の余韻はまだまだ強く身体の中に残っていた。
弘樹は無意識に茉奈の身体を抱き締めて離れないようにしていた。
弘樹は目を閉じて余韻に浸っていた。
そんな快感が弱くなってきてから、ゆっくり目を開けた。
目の前の人物は弘樹の顔をしていた。
すなわちセックスすることでは元に戻れないということだ。
「もしかしたらずっとこのままかもしれないね」
弘樹に茉奈が言った。
弘樹の身体にはセックスの余韻がまだ残っていた。
そのせいかあまり頭が働かなかった。
茉奈からそう言われると、何となくそれが正しいことのように感じた。
今はそれでもいいと思えた。
女性としてセックスを楽しみ続けることができる。
それがそのときの弘樹にとって最優先のことになっていたのだ。
だからそれよりも気になっていたことを聞くことにした。
「会ったときから聞きたかったんだけどさ」
「何?」
茉奈がニコッと笑った。
「この身体ってどうやって手に入れたんだ?」
「えっ!?」
茉奈にとっては予想さえしていない質問だったのだろう。
かなり驚いた表情になった。
「やっぱり手術とかしたのか?」
「あ、うん」
茉奈は言いづらそうだった。
そりゃそうだろう。
そんな話なんてしたくないに決まってる。
とにかく手術したってことが分かっただけでも良かったように思えた。
「そうか。でもどうして?」
「だってあたしは女の子なんだから。だからお兄ちゃんのことを好きになったんでしょ?」
どうしたらそこまで人のことを好きになれるんだろう。
そんな執念にも似た気持ちのせいでこんなことが起こったのかもしれない。
それにしても作り物の身体でもこんなに感じるんなら、本当の女の身体だったらどんなに感じるんだろうか。
弘樹は自分の乳房に手をあて、そんなことを考えていた。


離れて暮らすより一緒にいたほうがいい。
そのほうが元に戻る確率が高くなる。
そう言い出したのは弘樹のほうだった。
そしてそんな考えのもと、弘樹と茉奈は二人で暮らし始めた。
実家から送られて来た茉奈の荷物はほとんど衣服だったため、弘樹の部屋にも余裕が納めることができた。
茉奈の実家には弘樹と暮らしていることは話していない。
ただ新しい住まいの住所を伝えただけだ。

二人はほとんど出歩くことはなかった。
冷蔵庫の食料がなくなりそうになれば茉奈が買いに出た。
それ以外は、暇があればセックスに時間を費やしていた。
名目はもちろん戻るためだ。
だがそれ以上にセックスそのものに嵌ったといったほうが正しい。
弘樹は女として、茉奈の男としての身体を求めた。

茉奈がやってきてから10日ほどが経った。
「ねえ、明日入学式なんだけど」
いつものように抱き合ったあと、茉奈が切り出した。
いつの間にかそんな時期になっていた。
「ああ、もう入学式か…」
「お兄ちゃん、あたしとして入学式に出てくれるでしょ?」
「分かってるよ。もちろん出るつもりだから大丈夫だよ」
この頃になると、自分が茉奈でい続けることを半ば受け入れていた。
だから茉奈として入学式に出席することは弘樹にとって当然のことのように考えていたのだった。
だから改めてお願いされるとは考えてもいなかった。


そしていよいよ入学式の日が来た。
「おい、こんなの着て行くのかよ」
入学式のために茉奈が準備した服は就活スーツみたいなものだった。
白いブラウスに黒の上下のスーツ。
「こんなの、全然可愛くないじゃん」
弘樹はかなり不満だった。
せっかく可愛いのにどうしてこんな無個性な服を着ようと思うんだろう。
意味が分からない。
「だって入学式なんだから、それなりの服を着なくちゃいけないでしょ?」
「だったら、この前、大学を見に行ったときの服のほうがずっと可愛いじゃん」
「あれはあれなの。これを着て」
「分かったよ。着りゃいいんだろ、着りゃ」
弘樹は渋々準備された服を着た。
サイズはピッタリだった。
しかしやっぱりあんまり可愛くない。
「着たよ。これでいいのか?」
「うん、でもちょっとそこに座って」
「何だよ」
茉奈がポーチから何かを取り出した。
口紅だった。
「やだよ、そんなのつけるの」
「年頃の女の子は化粧くらいするものよ」
「だって今までしてなかったじゃないか」
「あら?お兄ちゃんに会いにきたときはしてたわよ。気づかなかった?」
そんなことに気づくわけがない。
弘樹は何とか断ろうとしたが、結局は口紅だけつけられてしまった。

「それじゃ行きましょう」
「えっ、一人で行けるよ」
「だってあたしの入学式なのよ。身体が変わったってやっぱり行きたいんだもん」
確かにそんなものなのかもしれない。
「仕方ないな。それじゃ一緒に行こうか。ただし茉奈は保護者席だぞ」
「いいよ、それで」
"嫌だ"と言われても新入生の席になんて座れるわけないのだが。

二人で大学に向かう途中、やはり茉奈は弘樹を手をつなごうとした。
前回とは違い、今回は弘樹も簡単にそれに応じた。
何度も身体を重ねてきて、今さら手を握ることなんて大したことではないように感じていたのだ。

「それじゃお兄ちゃん、頑張ってね」
大学の講堂に入ると、茉奈がつないでいた手を離して言った。
別に弘樹自身が新入生代表挨拶をするわけでもなく頑張れることは何もない。
それでも弘樹は"分かった"と示すように片手をあげた。
それを見た茉奈はニコッと笑って、保護者席に向かって行った。

新入生の席は学生番号順に指定されていた。
弘樹は茉奈から教えられた番号を探し、そこに座った。
両隣はまだ空席だった。
弘樹は指定された椅子に座って、スマホで時間を潰していた。

しばらくすると右隣に誰かが座る気配を感じた。
顔を上げると綺麗な女性が隣の椅子に座ったところだった。
着ている服も弘樹のものと比べ物にならない綺麗で可愛い服だった。
自分もこんな服を着てくればよかった。
弘樹は少し後悔した。
そんなことを考えていたら、その女性と目が合ったので、軽く会釈した。
相手の女性も会釈してきた。
「私、西野有加。よろしくね」
有加の声は見た目のイメージと違って少し低かった。
これで声も可愛かったらよかったのにな。
そんなことを考えていると、目の前の有加がジッと弘樹のほうを見ていることに気づいた。
そうだ、こっちの自己紹介ができていない。
そう思い慌てて自己紹介しようとした。
「あ、こちらこそよろしく……」
弘樹は一瞬茉奈の苗字が思い浮かばず焦った。
が、何とか思い出すことができた。
自分と同じ"岡"が入った苗字だったことで思い出せたのだ。
「わたし、中岡茉奈です」
「ねえ、あなた、一緒に来たのってお兄さんなの?」
「え、どうして?」
弘樹は見られていたことに動揺していた。
それでもボロが出ないように言葉遣いには気を配った。
「自分で"お兄ちゃん"って言ってるのが聞こえたから」
「あ、そ、そう。お兄ちゃんなの」
「ふぅん、そうなの?何となくそういう雰囲気じゃなかったけど…。だって手をつないでいたわよね?」
「本当にお兄ちゃんなんですって」
「ふぅん、まあそういうことにしておきましょう。本当のことはすぐに分かると思うし」
そんな話をしていると入学式の開会を告げる声が講堂に響いた。
しばらくは退屈な時間を我慢しなければならない。

入学式は無事に終わった。
弘樹が急いで講堂を出ようとすると有加が声をかけてきた。
「せっかく知り合いになれたんだから、どこかでお茶でも飲まない?」
「え…」
どう返答しようかと迷っているところへ茉奈が近づいてきた。
「おに…」
「お兄ちゃん」と言いかけた茉奈に向かって、弘樹は慌てて口に人差し指をあてた。
黙れという意味だ。
茉奈もすぐに気づいたようだ。
慌てて口を押さえた。
そして黙って近づいてきた。
「中岡さん、お兄さんが来たわよ」
有加は弘樹に教えるように言った。
弘樹はわざとらしく茉奈のほうを向いて「おにいちゃん!」と言ってウインクした。
話を合わせて欲しいという合図のつもりだった。
「茉奈、もう友達ができたのか?」
茉奈はうまく話を合わせてくれそうだ。
弘樹はそう感じ安心した。
「私、西野有加っていいます。中岡さんのお兄さん……ですよね?」
「えっ?」
茉奈はどう回答すべきか分からなかったようだ。
弘樹のほうを見て助けを求めるような視線を送ってきた。
弘樹は肯定しろとばかり何度も首を縦に振った。
茉奈に伝わったかどうか分からない。
「お兄さんと言っても、小さなころ近くに住んでたっことだよ」
「あ、そういう意味でお兄さんなんですか?それじゃどうして中岡さんの保護者なんですか?」
「僕は茉奈の彼氏としてついてきただけさ。それにこの大学の先輩でもあるしね」
「やっぱりそうだったんですよね?中岡さんったら実のお兄さんみたいなこと言ってましたよ」
「茉奈は照れ屋だからな」
弘樹は恐い顔をして茉奈を睨みつけていた。
しかし茉奈はそんなことはお構いなしだ。
「それじゃ私はお邪魔でしょうから、帰ります。単位取りやすい授業とか、また教えてくださいね」
有加が離れて行った。

「何であんなこと言うんだよ」
そして「あっ」と言って「あんなこと言うのよ」と言い直した。
「どうしたの?もうあの子は行っちゃったわよ」
「さっきの有加って子、わたしたちのこと、大学に来たくらいから見てたんだって。その有加が"お兄ちゃん"って言ってたのを聞いてるの。外じゃいつ誰に聞かれてるか分からないから、ちゃんとしてたほうがいいと思うの」
「あ、それもそうね。それじゃあたしはお兄ちゃんらしく話せばいいのね……じゃなくて、話せばいいんだな」
「うん、そうして。で、どうしてあんなこと言ったの?」
「それは茉奈が本当のことを言わないからだろ。別に恥ずかしいことじゃないんだから嘘なんかつく必要はないじゃないか。それとも僕たちが恋人ってのは秘密なのか?」
「だって冷やかされたりしたら、どうすればいいのか分からないし。生まれて今まで誰ともつき合ったことなんてないんだから」
「えっ、お兄ちゃんってあたしが本当に初めてだったんだ」
「話し方!」
「あ、ごめんなさい。あんまり嬉しくって」
茉奈はペロッと舌を出した。
茉奈自身がやれば可愛いんだろうけど、姿が弘樹なのだから気持ち悪いだけだった。
「ところで、茉奈は僕のことをどう呼ぶんだ?」
「えっ、お兄ちゃんでいいんでしょ?」
「せっかくだから名前で呼ばないか?弘樹さんとか。そうしようよ」
「ええ、それはちょっと呼びづらいかも…」
「慣れれば大丈夫だよ。弘樹さんって呼んでよ」
「分かったわ、弘樹さん」
急に茉奈が弘樹を抱き締めた。
そして耳元に顔を近づけて「お兄ちゃん、可愛い」と小声で言った。
弘樹は耳まで真っ赤になった思いだった。

そしてその日の夜になった。
「茉奈、いいだろ?」
茉奈が弘樹の肩を抱いてきた。
「今日は疲れてるからパス!それにしても家では普段通りでいいんじゃないか」
「普段からやっておかないと、ボロが出てしまうだろ?」
「そりゃそうだけどさ……」
「だから、今日からちゃんと役割に合った喋り方でやろうぜ」
茉奈が弘樹に覆い被さった。
「マジでやめろって。本当に疲れてるんだからさ」
口答えする弘樹の口を塞ぐように唇を押しつけて来た。

パジャマの上から乳房が弄られた。
口が塞がれて声を出せない。
少しの苦しさに頭がボーッとなった。
それとともに下半身が疼いてきた。
これが子宮が求めるという感覚なのだろうか。
と言っても子宮なんてあるはずがないのだが。
弘樹はボーッとしながらも、心のどこかでそんな冷静なことを考えていた。

茉奈の唇が離れた。
酸素を求めるように大きく速く呼吸した。
茉奈の手がパジャマの中に入って来て、乳首を指先で摘んだ。
「あ…ああ……やめろ……やめろって……」
「茉奈、もう少し女の子らしく言えよ」
「無理だって言ってるだろう…」

茉奈が素早くパジャマのズボンとショーツを剥ぎ取った。
茉奈のほうはすでに下半身は何も身につけていなかった。
そしていきり立ったペニスを弘樹の膣にあてがった。
まだ充分に湿り切っていなかったため、入らなかった。
「痛い!痛いって」
「女の子らしくしなかったら、無理やり入れるぞ」
茉奈が凄んだ。
「そんなことしたら、大事なところが痛むぞ。そんなことになって困るのはお前だろう」
弘樹が何とか反撃しようとした。
「でも痛い思いをするのはお前だからな。どうする?」
「分かった、分かったってば。女らしくすればいいんだろう」
弘樹は仕方なく折れた。
「そうそう、女の子は素直にならないとね」
茉奈は弘樹の乳房に舌を這わせ、指で下半身に触れた。
「ぁぁん……」
「茉奈、気持ちいい?」
「ん……気持ちいい……」
「かなり濡れてきたよ。そろそろいいかな?」
「うん、来て」
弘樹はそう言いながら、脚を広げた。
ゆっくりとペニスが入ってくるのを感じた。
弘樹はこのときの感覚が好きだった。
突かれるほうが感じ方は強いのだが、入れられるときに感じる充足感がたまらなくいいのだ。
「あああ…ぃぃ……」
ペニスを全て入れると茉奈の動きが止まった。
「次、どうして欲しい?」
今日の茉奈は意地悪だ。
弘樹はそう感じながら、なぜかいつもより燃えそうな予感があった。
「動かして」
「動かせばいいんだな」
茉奈はいつもと違ってデタラメな動かし方をした。
それが妙な感覚をもたらした。
「ああああ……すごい……すごすぎる……」
弘樹は茉奈の背中に爪をたてた。
「ダメぇ……やめて……おかしくなるぅ…………」
すると茉奈の動きがピタッと止まった。
「えっ?」
「だってやめてって言ったからさ」
弘樹は茉奈を恨めしそうに睨んだ。
「頼むから最後までイカせてくれよ」
「喋り方!」
「最後までイカせて、お願い…」
「まあそれでいいか」
茉奈が再び腰を動かした。
弘樹はすぐに昇りつめた。
「あああああ……いくぅ………」
茉奈が弘樹の中に射精した。
弘樹はこれまでに感じたことのない絶頂感に達した。

弘樹は茉奈として大学へは真面目に通った。
一度取った授業ばかりだったので、講義なんて聞く必要はなかったのだが、曲がりなりにも新入生だし、最初はそれなりに真面目であるような態度を見せておかないと、と考えたためだった。
大学に顔を出すと必ず有加が隣に座ってきた。
わざと少し遅れて教室に入っても、講義中にもかかわらず、有加は隣にやってくるのだ。
そして大抵は恋人と思っている茉奈との出来事を聞きたがった。
別に他人の交際なんてどうでもいいじゃないか。
そう思うのだが、有加にとっては重要なことなのかもしれない。

茉奈のほうはゼミがあるときだけ大学に来ればいいのだが、大学に来ること自体が楽しいらしく、毎日のように大学にやってきた。
時には1回生の授業に一緒に出ることさえあった。
そうなると有加は数段階テンションが上がった。
弘樹はそっちのけで、茉奈に一生懸命話しかけた。
大抵は茉奈が聞き流すのだが、茉奈の興味のあるような話題が出れば、茉奈と有加は弘樹の存在を無視して、話すのだった。
茉奈にとっては女どうしの感覚だったのかもしれない。
最初のうちは冷静にそういうふうに思えることができた。

そしていつの間にか昼食は学食で茉奈を交えて3人で食べるのが普通になった。
有加のこれ見よがしのアプローチを見せつけられると少しずつ気持ちが乱れるようになった。
茉奈と弘樹がつき合っていることを有加は分かっているはずなのに。
茉奈も茉奈だ。
有加なんかにデレデレして。
そんなイライラが弘樹の心の中に少しずつ溜まっていった。

そしてゴールデンウィークが翌週に迫ったある日のことだった。
「なあ、茉奈、今日さ、有加が言ってたんだけど……」
夕食を食べていると、茉奈が話し始めた。
茉奈にとっては取るに足らない一日の出来事の話だった。
しかし弘樹にとっては聞きたくもない話だった。
弘樹は持っていた茶碗を床に叩きつけた。
茶碗は粉々に割れ、ご飯は床に飛び散った。
茉奈は驚いて、何も言えず弘樹の顔を見た。
弘樹もしばらくの間何も言わず焦点の合わない視線を宙に泳がせていた。
「どうしたんだよ……」
そう言って、弘樹のほうに手を伸ばしてきた。
弘樹はその手を振り払って叫んだ。
「何だよ、有加、有加って。どうしてお前はあんな女とイチャイチャしてるんだよ」
このとき弘樹は素の弘樹に戻っていた。
「どうしたの、お兄ちゃん?そんなに怒ることじゃないでしょ?ただちょっと話しているだけじゃない」
茉奈も素の茉奈に戻っていた。
「だったら僕なんかと一緒にいないで、有加のところに行けばいいだろ!」
そう言った途端、弘樹は急に吐き気を催した。
急いでトイレに走った。
そして食べたばかりの食べ物を全部吐いてしまった。

「どうしたの、お兄ちゃん、大丈夫?」
茉奈はトイレの入り口でオロオロしていた。
もう吐く物がなくなると、少しは楽になった。
「ああ、大丈夫みたい。なんか急に吐き気が出てきて…。驚いたな」
「風邪じゃない?今日はもう無理しないで、早く寝て」
茉奈は心配そうな表情だった。
「ああ、そうさせてもらうよ。吐いたし気持ち悪いんでシャワーだけ浴びてくるよ。そしたらすぐに寝るね」
「うん、そうして」
熱いお湯にうたれると、何だか気分も良くなってきた。
それでも念のためそのままベッドに潜り込んだ。


次の日の朝、起きると、いつものように茉奈が朝食の準備をしてくれていた。
「おはよう。大丈夫、お兄ちゃん?」
茉奈は今日も茉奈のような話し方だった。
それは弘樹のことを心配していて、気持ちに余裕がないせいだろう。
弘樹はそう考え、昨日怒ったことはどうでもいいような気がしてきた。

「ああ、大丈夫だ」
そう言って、食卓につこうとした。
しかし出されたご飯の匂いで、やはり吐き気が出てきた。
「ごめん、やっぱりダメみたい」
口を押さえて何とかこみ上げるものを抑えた。
「そう…。ねえ、お兄ちゃん、これで検査してみてくれない?昨夜買ってきたんだ」
茉奈がテーブルに何かを置いた。
それは薬のようだった。
箱には『Check One』と書かれていた。
「何、これ?」
「…妊娠検査薬よ……」
「!?」
弘樹は何も言えなかった。
茉奈の言っている意味が理解できなかったのだ。

「お兄ちゃん?」
「ななな…何言ってんだよ」
「だから妊娠してるかを検査するのよ」
「どうしてこの身体が妊娠するんだよ、だって手術して女になったんだろう?」
「え?あ……そういうふうに考えていたんだ…」
「そういうふうにってそれ以外の何があるんだよ?」
「お兄ちゃんはあたしが性転換手術したんだって思ってるんでしょ?」
「あ、ああ…それ以外に手術ってあり得ないだろ?」
「ごめんなさい、ちゃんと説明しとけばよかったね。実はあたし、生まれたときから本当は女の子だったの。でもあそこに異常があって、まるで男の子のものみたいになっていたんだって。おかげで、周りはもちろん、あたし自身も自分は男の子だって信じて疑わなかった。でも第二次性徴期を迎えるころになると、周りの男の子とはどんどん声変わりしていくのに、あたしの声は全然変わらなかった。みんなは髭がはえているのに、あたしは全然髭なんてはえなかった。身体は小柄なままだったし、女男って虐められたわ」
茉奈はそこで一旦息をついた。
弘樹が黙っていると、やがて続きを話し始めた。
「あたしが中学3年になった夏休みだった。あそこから出血があったの。大騒ぎだった。知らぬ間に怪我をしたのか、そうじゃなかったら変な病気なのか。で結局あたしが病気だってことが分かったの。仮性半陰陽だったって。女の子なんだけど、あそこが男の子みたいになってたの。両親は今まで息子だと思っていたのが急に娘だって言われて、かなりパニックになったみたい。でもあたしはお兄ちゃんのお嫁さんになれる可能性ができて嬉しかった。一日も早くちゃんとした女の子になりたかったのに、カウンセリングとかされてなかなか手術してもらえなかった。ようやく冬休みのときに手術してもらって、やっと女の子になれたの。お兄ちゃんのお嫁さんになりたかっただけで、別に女の子になりたかったわけじゃなかったら、最初は女の子の身体に戸惑ったわ。生理もあったけど、すごく不定期だった。そもそも女性ホルモンが少なくって、毎日女性ホルモンを摂らされてたの。おかげで少しずつ胸ができてきて、そのうち定期的に生理を迎えるようにもなった。何とか自分の身体の中で必要な女性ホルモンができるようになったけど、それでも赤ちゃんを産むのは無理だろうって言われてたの。それなのにあたしの身体に赤ちゃんが宿るなんて夢みたい」
茉奈は弘樹のお腹に手を伸ばしてきた。
「僕に赤ちゃんを産ませるのか?」
「ダメ?あたしが半分諦めていた赤ちゃんを授かったのよ」
「だからと言って僕が産むなんて絶対無理だって」
弘樹はほんのひと月前までは男だったのだ。
なのに、ある日、突然女の身体になってしまった。
てっきり性転換した人工的な女の身体で、妊娠なんかしない身体だと思って、セックスしていたら、挙げ句の果てには自分のお腹に新しい生命が生まれてしまったのだ。
こんな状況に馴染む程、弘樹は順応性は高くない。
何をどう考えればいいのか想像もできなかった。
弘樹は黙って、寝室に行き、そのまま横になった。

(あーあ、何なんだよ…)
弘樹は自分のお腹の上に手を置いた。
この身体になったときは、女の身体に性転換した身体になったんだと思った。
だから中出しされても全然何とも思わなかった。
むしろ中出しされる感覚が好きだった。
気持ち良さが全てに優先した。
なのに妊娠する可能性があったなんて。
そう分かっていたら、あんな無防備に中出しさせなかったのに。
あらためて考えると、女になってひと月近く経つのに生理なんて来ていない。
さっき茉奈は"定期的に"あったみたいなことを言っていた。
生理が来ていないことと言い、悪阻みたいな吐き気のことと言い、やはり妊娠してるんだろう。
とにかくまずはちゃんと調べてもらおう。

弘樹は茉奈のところに戻った。
「あ…お兄ちゃん……」
「まずはちゃんと調べてみないとな。悩むのはそれからだ」
弘樹は妊娠検査薬を手にトイレに入った。
検査の仕方を読み、検査薬の先端におしっこをかけた。
そして1分後、判定窓に赤紫色の線が出てきた。
陽性だ。
やはり妊娠しているということだ。

弘樹は検査薬を持って、茉奈のところに戻った。
茉奈は何も言わない。
弘樹は茉奈の目の前に検査薬を見せた。
「え…これって……」
予想通りの検査結果にもかかわらず茉奈の表情は驚いているように見えた。
自分の身体は本当に妊娠しないと信じていたのかもしれない。
「妊娠してるってことかな。明日にでも医者に行ってくる」
弘樹はできるだけ平静を装うように静かに話した。


次の日、弘樹は一人で産婦人科に行った。
茉奈もついていくと言い張ったが、それは断った。
弘樹より茉奈のほうが大騒ぎするような気がしたからだ。
医者に行くと、問診表を書かされ、尿を取られた。
そしてしばらく待合室で待っていると名前を呼ばれた。
「妊娠検査薬で陽性反応があったとのことでいらしたんですね」
「はい」
「それじゃ下着を脱いで、そこに座ってください」
弘樹は指差された方向に置いてある診察台を見て言葉を失った。
こんなところに座らないといけないのか…。
「もしかして産婦人科は初めて?」
そばに立っていた看護婦が声をかけた。
「あ…はい…」
「それじゃ驚くかもしれないわね。でも大事な診察だから少し我慢してね」
弘樹は看護婦に促されるまま、下着を脱いで、その診察台に乗った。
両足を広げた体勢をとらされ、女性器は医者から丸見えだ。
「それじゃ始めるね。少し気持ち悪いかもしれないけど我慢して」
そう言って、医者は左手をお腹にあて、右手の指を膣の中に入れてきた。
そのうち何かの器具を使ったかと思うと、その画面に何かが映った。
それは脈を打っているようだった。
「おめでとうございます。ご懐妊です」
医者からそう言われ、なぜか嬉しさがこみ上がってきた。
妊娠に戸惑っていたはずなのにどうして…。
弘樹は自分で自分の気持ちが分からなくなった。

「どうだった?」
家に戻ると茉奈が駆け寄ってきた。
弘樹の帰りを待ち構えていたのだ。
「やっぱり妊娠してるって。予定日はクリスマスの日」
弘樹は素直に報告した。
「本当に?本当にあたしの身体に赤ちゃんができたの?」
「ああ」
「それで……」
茉奈が言い難そうに口をつぐんだ。
そしてなかなか次の言葉が続かなかった。
弘樹は沈黙に耐え切れず聞いた。
「僕が産むかどうかを聞きたいのか?」
茉奈が上目遣いに弘樹を見て小さくうなずいた。

「問題が2つある。未婚だということと、産んでからどうやって育てるかだ」
弘樹は気になっていたことを口にした。
「だってあたしが、あたしの身体が妊娠したなんて奇跡なんだよ。堕ろすなんて言わないで」
茉奈が悲しそうな顔をした。
「別に産まないとか堕ろすとか言ってるわけじゃない。ただ重要なことだろ?」
茉奈がうなずいた。
今にも泣き出しそうだ。
「安心しろ。僕がちゃんと元気な赤ちゃんを産んでやるよ」
「え!ホント!」
茉奈が抱きついてきた。
「医者から妊娠と言われたとき、不思議と心に温かいものを感じてさ、これが母親になる一歩なのかなと思って…」
「ありがとう、ありがとう、ありがとう……」
茉奈はやや興奮気味だった。
自分の力が強くなったことなど意識せず、しっかりと抱き締められた。
そのため、息をするのもやっとだった。
弘樹は茉奈が落ち着くのを待って、身体を離した。
「それで話があるんだけど」
弘樹がたっぷりの酸素を摂ってから話し始めた。
「?」
「結婚しないか?」
弘樹はできるだけ気張らず自然な調子で言った。
「え…あ…うそ……」
それでも茉奈は驚いて口を開け、それを両手で隠した。
女の子がすると可愛い仕草だろうが、自分の身体でされると気持ち悪いだけだ。
再び歓声をあげた。
そして抱き締められそうになったが、それを両手で制した。
「結婚するってことでいいんだよな?お前は父親として、僕と生まれて来る子供を育てるってことでいいんだな?これで2つの問題はクリアだ」
茉奈の動きを制しながら、弘樹が確認した。
「うん、うん……」
茉奈の顔は涙でグチャグチャになっていた。
元の自分の顔とは言え、ひどい顔だった。
思わず笑ってしまった。
「何だよ、その顔……」
「何よ、そんなに笑わなくたっていいじゃない…」
気がつけば弘樹も泣いていた。
泣いて二人で抱き合った。



「お母さん、やっぱり明日帰るね」
弘樹は茉奈の振りをして茉奈の母親に電話を入れた。
ゴールデンウィークは帰らないと言っていただけに茉奈の母親は喜んだ。

「母さん、ゴールデンウィーク、帰るから」
「どうしたの?わざわざ電話してくるなんて。何かあったの?」
「あ…いや、別に……。と、とにかく帰るからな」
茉奈は弘樹の振りなんてできなかった。
帰ることだけを伝えて、急いで電話を切った。

「大丈夫かな?」
「いざとなれば駆け落ちすればいいさ」
そんなことを口に出してみたが、やはり両親には祝福されて結婚したかった。
それぞれの両親がどのような反応をするのか二人には想像すらできなかった。

弘樹は茉奈とともに茉奈の家に向かっていた。
茉奈の実家は電車で1時間強のところにあった。
娘が彼氏を連れて自分の両親に紹介する。
そういう状況だったが、実際は違う。
娘になってしまった彼氏が、実の娘の振りをして実家に戻るのだ。
しかも結婚の了解も得ようとしている。
もしかすると妊娠の報告もしないといけないかもしれない。
ただでさえ緊張するような状況なのに、身体が入れ替わっているのだ。
弘樹の緊張は時間が経つにつれ、高まってきた。
緊張で身体を動かすことさえ困難に感じるほどだった。
それは茉奈も同じだった。
二人はただ黙って座席に座っていた。

茉奈の実家はバスで20分ほどの郊外の住宅地にあった。
そこは一戸あたり60坪ほどありそうな家が集まっていた。
所々に不釣合いな3階建てのいかにも賃貸マンションという建物もあった。
概ね高級住宅地と呼べるところだった。

弘樹は一軒の家の前で大きく深呼吸した。
表札には『中岡』とあった。
茉奈の実家だ。
つまり今は自分の実家だ。
心臓の音が隣にいる茉奈にまで届いているかと思えるくらい鼓動が激しくなっていた。

「行くよ」
茉奈が弘樹に言った。
「ちょっと待って」
弘樹は自分の服装を確認した。
膝丈のオフホワイトのワンピースと黄色いカーディガン。
バッグから手鏡を取り出し、顔もチェックした。
おとなしめの赤の口紅は崩れてない(化粧はこれだけだ)。
髪型も特に大きな乱れはない。
入念にチェックしている弘樹を茉奈は呆れて見ていた。
弘樹はそんな茉奈の視線に気づいて言った。
「わたしは茉奈として恥ずかしくないように気を配ってるだけだからね」
言葉遣いについても事前に茉奈にレクチャーしてもらったことを頭の中で確認した。
そうしていると急に扉が開いた。

「茉奈、さっきから家の前で何してるの?さっさと入りなさいよ」
どうやら茉奈の母親は家の中からずっと観察していたようだ。
茉奈の母親は茉奈のほうに目をやった。
「こちらは?」
「お母さん、覚えてる?わたしが小さい頃、近所の谷岡さんのお兄ちゃんの後にくっついてたこと」
「ええ、覚えてるわ。それじゃ…」
「はい、お久しぶりです。谷岡弘樹です」
「あらまあ、あの弘くんなの?この子ったら、そんなこと全然話してくれなくって…。へえ、そうなの…」
茉奈の母親は弘樹のほうを見て意味ありげに笑った。
「こんなところじゃナンですから、家の中へどうぞ」
そう言って茉奈を家の中に招き入れた。
「弘くんはあなたのこと知ってるの?」
弘樹に小声で確認した。
「うん、全部話したわよ」
「そう?ならいいんだけど」
弘樹は自分のことを怪しんでいる様子がないことにホッとしていた。
自分の娘が彼氏を連れてきたことに心を奪われているようだった。

茉奈は居間のソファに座った。
弘樹はどこに座っていいのか分からずそのまま立っていた。
茉奈が「ここに座れ」というように横のソファを見たので、とりあえず茉奈の隣に座ることにした。
弘樹はスカートの裾を注意しながらお尻から座った。
そうして待っていると、母親がお茶といかにもありあわせのお茶菓子を茉奈の前に置いた。
弘樹と自分の前にお茶を置いて、二人の前に座った。
「それで…。二人でこんなふうにやってくるってことは何か話があるんでしょ?」

弘樹と茉奈は視線を交わした。
まさか母親から切り出されるとは想定してなかったのだ。
茉奈が自分が聞くというようにうなずいた。
「あの、お父さんはいらっしゃいませんか?」
母親が少し笑ったように見えた。
「今ちょっと出てるだけだから、もうすぐ帰ってくると思うけど。待ったほうがいいの?」
「はい」
茉奈がきっぱりと言った。
「そう…。どうやら単なる交際報告だけじゃなさそうね」
母親は茉奈のほうをまっすぐ見た。
もう二人の話の内容は分かっているように思えた。
「この子からさっき事情は話したと聞きましたが、この子は普通の女の子とはちょっと違います」
そして二人をゆっくり見た。
「生まれたときは男の子でした。私たち夫婦にとってはそれ以降子宝に恵まれず唯一の可愛い長男だったんです。私たちにとってはかけがえない息子でした。それがある日急に女の子だって聞かされて…」
そこで言葉が詰まった。
当時のことを思い出して、胸がいっぱいになったんだろう。
「この子にもいろんな葛藤があったと思います。ご近所の目を気にして、この子の手術を機にこちらに越してきました。一日も早く女の子になれてほしくて、女子高にも入れました。今は普通の女の子に見えるまでになりましたが、身体は健康な女性とは違う可能性があります。たとえば赤ちゃんを産めるかどうか分からないと言われてます」
「お母さん」
そこで弘樹が言葉を挟んだ。
「わたし、妊娠してるの」
結婚のことを話に来たのに順序が逆だと頭で考えていたが、すでに言葉が口から発せられてしまった。
そう言えば母親は喜んでくれると思ったのだ。
「え…なんて?」
「わたし、今妊娠してるの。今年の12月だって」
弘樹は勢いで、そう言ってしまったのだ。

パンッ!
部屋の中に乾いた音が鳴った。
弘樹は自分の左頬に手を当てた。
母親に頬を叩かれたのだ。
「何を考えてるの、この子は!何のために大学に行かせたと思ってるの!」
これには茉奈も慌てた。
「何をするの、お母さん!」
つい地で叫んでしまった。
「弘くんは黙ってなさい。あなたには後でいっぱい言いたいことがあるから」
茉奈はその言葉で自分の立場を思い出した。
おとなしく「はい」とだけ言っただけだった。

母親はまっすぐ弘樹のほうを見た。
「あなたをちゃんとした女の子として産んであげられなくて、お母さんはすごく申し訳なく思ってるわ。だからあなたが女の子になることを選んだときは、絶対に女として普通の幸せをあなたにあげようと決心したの。分かる?」
母親は少し間を置いた。
「だから他の人から笑われないように大学に進学させたのに…、入学して間もないのに…、妊娠したのって……。いったい何なの?茉奈は自分の将来のこと、少しでも考えてるの?」
弘樹は目を伏せた。
言い返す言葉なんて思いつかなかったからだ。

「それであなたたち、これからどうするの?子供ができたから結婚します、なんて短絡的なこと言いに来たわけじゃないでしょうね」
「えっ…。それがその…」
「あなたたち、何年か振りに会って、単に盛り上がっているだけでしょ?その結果として子供ができちゃって、結婚だなんて。もう少し自分たちの将来を考えたことがあるの?」
母親は結婚に関してはかなり厳しかった。
いろいろなケースを例に出し、厳しいことを言われた。

「でもお母さん、妊娠できないと言われてたのに、妊娠したのよ。これってわたしたちの相性がいいってことじゃない?」
弘樹は少しでも懐柔できればと思い、そう言った。
「相性はともかく私がおばあちゃんになるのは嬉しいわね」
やはり孫というのに対してはやや隙がありそうだ。
表情がやや柔らかくなった。

「弘くん、あなた、茉奈のこと、本当に愛してるの?昔、弟のように一緒に遊んだ男の子を、自分の妻として、ずっと愛していける自信はあるの?」
そう言われて茉奈はニコッと笑って言った。
「はい、大丈夫です。ずっと愛します」
キッパリ言い切った。
さすがに迫力があった。
「あら、意外と真面目みたいね」
母親が驚いていた。
少し嬉しそうな感じが表情に表れてきた。
「わたしが反対してもどうせ結婚するんでしょ?」
「いえ、茉奈さんはまだ未成年なので、ご両親の同意が必要ですから」
茉奈が言った。
母親は黙って考えているようだった。
妙な緊張感が走った。
「…ふぅぅ、分かったわ」
母親が座り直して、茉奈を見た。
「弘くん、いえ、谷岡さん、茉奈をよろしくお願いします。もしもこの子が泣くようなことがあれば、私はあなたを殺します」
感じたことのない恐怖を感じた。
母親の表情にはそれほど鬼気迫るものがあった。
「ただし、茉奈には大学を卒業して欲しいと思います。だから少しくらい休学しても、きちんと卒業すること。これだけは約束してちょうだい」
「はい、分かったわ」
弘樹はうなずいた。
子供が生まれてから、大学なんてはたして行けるのだろうか。
しかしとりあえず同意しておかないと結婚を許してもらえない。
そういう思いだけで返事したのだ。
「お父さんは私が説得するから大丈夫。二人は余計なことを言わなくていいから」
母親がにこやかに宣言した。

40分くらい経ってから、茉奈の父親が帰ってきた。
話を聞いて最初は反対していたが、母親の毅然とした話っぷりに最後は渋々二人の結婚を認めることとなった。

「今日は泊まっていくんでしょ?」
母親の問いに弘樹は頷かざるをえなかった。
夕食はすき焼きだった。
茉奈は娘の許婚として抜け目なく振舞った。
父親はいたく気に入り(そりゃそうだ、中身は娘なんだから)、「婿養子に来んか?」と言い出す始末だった。

「お母さんってすごかったね」
二人は並べられた布団に入っていた。
「うん、母は強しだね。わたしもあんなに強くなれるのかな?」
弘樹はそう呟いた。
その日はおとなしく二人手をつないで眠った。


「それではお邪魔しました」
「またいつでも遊びに来てね」
翌朝、弘樹と茉奈は茉奈の両親に見送られて、次の目的地に向かった。
もちろん弘樹の実家だ。
弘樹は自分の両親に対して女の姿で会うことに尋常じゃない緊張感があった。
「ねっ、おかしくない?」
弘樹は何度も茉奈に確かめた。
服装が気になっていたわけではなかった。
ただただ不安だっただけだ。
最初は真面目に確認していた茉奈だったが、そのうち生返事に変わっていった。
いい加減にしろと言外に言っていたようなものだ。
「それじゃもう入るよ」
茉奈はインターホンも押さずに門扉から入っていった。
そして玄関のドアを開けた。
「母さん、母さん」
茉奈が家の中に向かって大声で呼んだ。
「はーい」
弘樹の母親がエプロンをつけたまま姿を現した。
「何だ、弘樹なの。えっと、こちらは?」
母親が弘樹のほうを見た。
「こちら、中岡茉奈さん。結婚しようと考えてる」
一瞬「えっ」という表情が浮かんだが、すぐに家の中に呼びかけた。
「お父さん。お父さん。弘樹がフィアンセを連れてきたわよ」
予想と違って歓迎ムードだ。
「おお、弘樹か。久しぶりだな。そちらがフィアンセさんか?」
父親もにこやかに迎えてくれた。
「まあ座んなさい」
母親がお茶を持って座るよう促してくれた。

茉奈は小さい頃よく遊びに来ていたせいか何となく弘樹の家庭が分かっているようだ。
父親と話にうまく話を合わせていた。
父親は弘樹のことを「可愛い娘さんだ」とやたら褒めた。
母親は父親の横に座りにこやかに二人を見ていた。

母親が空いた茶碗を持って台所に立った。
弘樹は息子の嫁としての役割を果たすべく、台所についていった。
「お客様は座っていて」
「いいえ、お手伝いします」
弘樹は母親の横に立った。
「あなた、妊娠してるんでしょ?」
母親が小声で言った。
驚いた。
何もかもお見通しだったんだ。
「あの子は自分の好きなことして大きくなったところがあるから、茉奈さんには苦労かけると思うけど、いいの?」
弘樹は小さくうなずいた。
「それにしても変ね。あなたのこと、本当の娘のように思えるの。きっとあなたとあの子が結ばれたのは神様のお導きなのね。これから女同士仲良くしてね。男どもが妬くくらい仲良くしましょうね」
弘樹は母親の言葉に胸が熱くなった。
自然と涙が溢れ出た。
「あらあら、美人が台無しよ」
弘樹は母親から渡されたタオルで涙を拭った。
それでも涙が止まることはなかった。

その後、祝いだと言って寿司の出前を取った。
茉奈は父親に勧められるままビールを飲み、顔を真っ赤にしていた。
母親と弘樹は男二人の世話をやく役割だった。

夜になり、二人で家に戻った。
「疲れたね」
「ああ」
二人でそのままベッドに倒れ込んだ。

「それにしても、お母さんとお茶を入れてきたときってすごい顔してたね」
「えっ、そうだった?」
「うん、思いっきり泣いたって顔だった」
「やっぱりばれてたんだ…」
「お母さんに何か言われたの?」
「うん、ちょっとね。母親にはかなわないなって思った」
「そう…。母親ってやっぱりすごいね」
「うん」
弘樹にはそんな母親に自分がなれるとは思えなかった。
そう思うと何だか急に不安に感じてきた。
「どうしたの?」
「自分も強くなれるのかなって…」
「大丈夫よ、一人で無理なら二人で親になればいいんだから」
そう言って、茉奈が優しく抱き締めてくれた。
自分の家で、女として抱き締められている。
そんな不思議な感覚のせいか茉奈が欲しかった。
「ねえ、抱いて」
弘樹はほとんど無意識に言った。
茉奈が驚いた顔をしている。
「あ…ごめんなさい。今の、忘れて。ちょっと疲れてるみたい」
茉奈はニコッと笑って、優しく唇を重ねた。
弘樹は目を閉じて、それに応えた。
二人はそのままセックスに入った。
この人についていこう。
弘樹は女としての幸せを噛み締めていた。


次の日にすぐに役所に婚姻届を出した。
まだゴールデンウイークだったが、休みでも婚姻届は受け付けてくれると聞いたからだ。
弘樹は晴れて『谷岡茉奈』になった。
そしてそれとともに悪阻に苦しめられる日が続いた。
お互いの両親への挨拶のときには精神的に張り詰めていたせいか一時的に悪阻がほとんどなかった。
しかし無事に入籍することができ、安心したのか、再び悪阻がひどくなったのだ。
ほとんど満足な食事はできなかった。
大学にも行けず家で臥せっているだけだった。

もともと家事は茉奈に任せっきりで、何もしていないに等しかったが、それでも食器を拭いたりすることはあった。
悪阻のせいで、そんな簡単な手伝いさえしなくなった。
茉奈のほうも一緒にいれば気分がふさぐのか、ゼミなんかで大学に出た日には夕食は外で済ませるようになった。
ひとりだけで部屋に残されている時間、弘樹はただただベッドに寝ていた。
この悪阻のつらさは永遠に続くような気さえした。
そんな悪阻がおさまったのは梅雨入り宣言のあった2日後だった。

「ねえ、お願いがあるんだけど…」
弘樹は横で寝ている茉奈に話しかけた。
「何?」
「たぶんこの先も茉奈のままだと思うし、ちゃんとした母親になりたいから、家事とか教えてくれないかな」
「気分は大丈夫?」
「もう落ち着いたみたい」
「だったら大学にも行かなきゃ。お母さんとの約束もあるしね」
「約束?」
「大学は卒業してって言われただろ?」
「あ、そうね」
「でも家事してくれるってことはいいことだから、交替で食事当番をするってのはどうかな?」

次の日の朝、弘樹は早く起きて朝食の支度をした。
朝食と言ってもトーストと目玉焼きを作っただけだ。
そんなものでも茉奈が「作ってくれたんだ。ありがとう」と言ってくれた。
すごく嬉しかった。
少しずつレパートリーを増やしていこう。
弘樹は密かにそんな決心をしていた。


ある日、大学を出ると、遠くに茉奈の姿を見つけた。
(あっ、茉奈だ)
声をかけようとしたが、茉奈の横に誰かがいることに気づいた。
有加だった。
(あれ?どうして有加が…)
そう思っていると、有加が茉奈と腕を組んで歩き出した。
二人でどこに行くんだろう?
それにしてもまるで恋人どうしみたいだ。
弘樹は嫌な予感がした。
そこで二人の後を尾けることにした。
二人の後ろに尾いていったが、全然気づかれる様子はなかった。
やがて嫌な予感が現実となるときが来た。
二人の姿がラブホテルに消えていったのだ。

「ただいま」
夜になって茉奈が部屋に戻ってきた。
誰かがいる雰囲気はあるにもかかわらず、部屋は暗かった。
「茉奈、いないのか?」
茉奈は弘樹を呼びながら、部屋の電気を点けた。
弘樹がひとり座っていた。
一瞬眩しそうに表情を歪めたが、視線は宙に向かったまま、茉奈のほうに向かうことはなかった。
「どうしたんだ、電気も点けないで」
茉奈は怪訝そうに弘樹に聞いた。
それに対し、弘樹は茉奈のほうを見て静かに言った。
「有加と何してたんだ?」
怒気はなく静かな口調だった。
茉奈が息を飲んだ様子が伝わってきた。
「"有加と"って?」
できるだけ平静を保とうとしているのが分かった。
「見たんだ、茉奈と有加がホテルに入っていくのを」
「えっ……」
茉奈はひるんでいるようだ。
「どうして…」
「そんなことをしたんだ?」と言う前に、茉奈がかぶせるように話した。
「だってずっと悪阻のせいでできなかっただろ?何となく欲求不満になってたときに、有加に誘われてつい……」
茉奈が言い訳がましく言った。
「その言い方だと今日が初めてってことじゃないんだな」
「あ…うん…今日は2回目よ」
言葉尻を捉えられて焦ったのか、話し方がいきなり元の話し方に戻った。
動揺している証拠だ。
茉奈は嘘をついている。
ということは、今日が2回目ではなかった、と白状しているようなものだ。
怒りがこみ上げてきた。
「もう何よ」
弘樹は手元にあった雑誌を投げた。
そのとき口から出てきた言葉に自分自身驚いた。
「もう何よ」ってまるで女じゃないか。
自分は根っから女になってしまったのか。
弘樹の浮気もショックだが、自分の変化のショックが大きかった。
すぐ横では茉奈が言い訳をずっと言い続けていた。
しかしそれは弘樹の耳には届いていなかった。
「もういい。先に寝る」
弘樹はひとり寝室に入った。
そして、ベッドに顔をうずめた。
自分は心まで女になったのだろうか。
母親になろうとはしたが、心の中まで女性になろうとは思っていなかった。
女性になりたくないわけではなかった。
そんなことを意識してなかっただけだ。
にもかかわらず、無意識のうちにも自分は確実に女になりつつある。
無意識の中に女性の心理が浸食していることに何とも言えない恐怖というか不安を感じるのだった。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠ってしまったようだ。
気がつくと朝になっていた。
自分の気持ちが何となく変わったような気がする。
自分の意識が女性になりつつあることを受け入れることができそうな感じだ。
一晩よく眠ったせいかもしれない。
母親になるのだから、その前に女になるほうがいい。
そうでないと出産なんて恐くて臨めそうにない。
精神的な女性化は無事な出産のために赤ちゃんが望んでいることのような気がした。
とにかくジタバタしても仕方がない。
なるようにしかならないんだから。
何だか少し強くなれた気がした。
少し母親に近づけたのかもしれない。

ふとベッドの状態に目がいった。
ベッドには茉奈が眠った様子はなかったのだ。
どうしたんだろう?
まさか家出したんじゃ…。
弘樹は急いでリビングに向かった。
そこに茉奈の姿があった。
ホッとした。
茉奈は一睡もしなかったようだ。
弘樹が近づくと、茉奈は顔を上げた。
目が真っ赤だ。
ずっと泣いていたのかもしれない。
「ごめん…。もうしないから許して…」
弘樹の姿を見ると茉奈は小さな声で謝った。
茉奈はきっと本当に反省している。
そう信じてもいいような気がした。
そしてこれ以上茉奈を責めることはやめようと思った。
「分かったって。今日は授業があるから、大学に行くね」
「それならあたしも…」
「今日は一人にして欲しいんだ」
弘樹は茉奈を責めるつもりはなくなりつつあったが、その分有加に対する怒りが生まれていた。
友達の彼氏と知ってモーションをかけるなんてどういう神経をしてるんだろう。
そんな怒りを有加にぶつけようと思ったのだった。
有加に会うときには茉奈にはそばにいてほしくない。
だから一人で行きたかったのだ。

大学に行って、有加の姿を探した。
授業に出ても、有加の姿はなかった。
学内のあちこちを探してみたが、やはり見つからなかった。
どうやら有加は大学には来ていないようだ。
でもどうして?
そんなことを考えると、茉奈が有加に連絡したとしか思えなかった。
だから有加は今日は大学に来ないんだ。
弘樹はそうとしか思えなかった。
そうなると茉奈に対する怒りも復活してきた。
何だ、二人で馬鹿にしやがって。
そんなことを考えているときだった。

「どうしたの、一人って珍しいじゃん」
背後から声をかけられた。
声のしたほうを見ると、岩山琢磨が立っていた。
弘樹は彼の姿を見てひとつの考えが浮かんだ。
一瞬迷ったが、結局それを口に出した。
「岩山さん、わたしを抱いてくれませんか?」
馬鹿にした二人に対する仕返しに、自分も浮気をしてやろうと思ったのだ。
そうすれば自分の怒りも治まるかもしれない。
まったく無意味かもしれないが、そんな自分の衝動を抑えることができなかった。
「茉奈ちゃん、だっけ?」
琢磨は弘樹の顔をジロジロと見た。
「俺って、友達の彼女だから悪いとかあんまり考えないし、来る物は拒まずだから、抱けって言われれば抱くけど……。本当にいいの?」
「構いません。だって彼が先に浮気したし…」
「浮気の仕返しに自分も浮気するってあんまりピンとこないけど…。まあいいか。それじゃ今からホテルに行こう」
琢磨は弘樹の肩を抱いた。
「えっ、今からですか?」
「今からじゃダメなの?時間が経てば迷いも出るだろうし、善は急げ、だろ?」
「そりゃそうだけど…」
結局琢磨に促されて、琢磨の車の助手席に乗り込んだ。


琢磨は部屋に入ると弘樹を抱き締めキスしてきた。
「待って。シャワーを浴びさせて」
「いいじゃん、シャワーなんかしなくっても」
琢磨はそんな弘樹の願いを跳ね除けた。
そして弘樹を抱きかかえベッドに運んだ。
「茉奈ちゃん、綺麗だよ」
そう言われてキスされた。
少し強引なキスだった。
そんな強引さが決して嫌じゃなかった。
琢磨は弘樹の口に舌を入れてきた。
弘樹も積極的に琢磨と舌を絡めた。

琢磨は首や胸元に舌を這わせながら、服の上から弘樹の乳房を揉んだ。
「…ぁぁ…んん…」
弘樹は感じる以上に声を出した。
少々オーバーアクションしたほうが琢磨が喜ぶと思ったのだ。
しかしそうすることで弘樹自身の気分も盛り上がり、より敏感になっていくことに弘樹自身気づいていなかった。

琢磨はいつの間にか服を脱ぎ去り、トランクス1枚になっていた。
すでにペニスは大きくなっている。
そしてそれはトランクスから出ていた。
(大きい…)
弘樹のペニスより二回りくらい大きかった。

次に琢磨は弘樹の服を脱がせにかかった。
弘樹は脱がせやすいように体勢を浮かせたりした。
そしてついには全裸にされた。
裸の肌と肌が重なる温もりが心の中まで浸透してくるようだった。
弘樹は琢磨の男の身体を求めた。

琢磨は弘樹の乳房を貪るように口に含んだ。
「痛いっ」
歯があたったりして、少し痛かった。
弘樹は琢磨のやや乱暴な愛撫に戸惑いながらも受け入れていた。
痛さと快感に翻弄されていると、気がつけば琢磨の頭が弘樹の脚の間に入っていた。
そして両手で両脚を押し広げられた。
部屋の電気は点けたままだ。
琢磨にまともに女性器を見られているのだ。
こんな体勢になったのは初めてだ。
言いようのない恥ずかしさに襲われた。
「恥ずかしいからやめて」
弘樹は手で股間を隠そうとした。
しかしそんな手は簡単にどけられた。
「茉奈ちゃんのって綺麗だ」
琢磨は弘樹の女性器を見て何度も「綺麗だ」を連発した。
恥ずかしさとともにその言葉が嬉しくもあった。
股間に熱い息を感じたかと思うと、ヌルッとした感触を感じた。
琢磨が弘樹の股間を舐められたのだ。
「ひゃん……」
全身に強烈な電気が流れた。
一瞬頭の中が真っ白になったように感じた。
「ぃゃああああああ………」
弘樹は悲鳴に近い声をあげていた。
弘樹は琢磨の舌に翻弄されていたのだ。
琢磨の舌が生み出す強烈な快感の前に声をあげるだけだった。
ふと見ると目の前に琢磨のペニスがあった。
雄々しく屹立している。
雄の匂いが鼻についた。
何とも言えぬ魅力を感じた。
頭の片隅では拒絶する気持ちもあった。
しかし弘樹は何の躊躇もなくそれを口に入れた。
こんなことをしたのは初めてだ。
喉の奥に達するほどのペニスにえずきながら一生懸命に舌を這わせたり吸ったりした。
琢磨のペニスはそれ自身が意思を持っているようだった。
弘樹が与える刺激に的確に反応した。
一生懸命にペニスに舌を這わせた。
弘樹はその行為に夢中になっていた。

琢磨の身体が離れた。
「もしかして茉奈ちゃんってフェラ初めてなの?」
琢磨の言葉に弘樹はうなずいた。
「不器用さが可愛いと言えば可愛いんだけど、時々歯があたるんだよな。それがちょっと痛くって」
「ごめんなさい」
「でも回数をつめば、きっとうまくなるよ」
そう言いながら、弘樹の両脚の間に身体を入れてきた。
そして弘樹の股間を何度もペニスの先で撫でるようにした。
「ぁ…ぁぁぁ……」
気持ち良さに自然と声が出た。

「もう準備は完璧みたいだね。それじゃそろそろ……」
琢磨はペニスに手を添えて、ペニスの先を膣口にあてた。
そしてゆっくりと琢磨のペニスが入ってきた。
いつもの茉奈の、そもそも自分のペニスに比べてやっぱりかなり大きい。
少しだが痛みがあった。
「んんん……」
痛みに声が出てしまった。
「痛い?茉奈ちゃんって初めてじゃないよね?」
"痛い"という言葉は何とか我慢したが、表情に表れていたようだ。
弘樹は素直にうなずいた。
「もしかしたら、まだそんなに経験がないのかな?」
回数だけならおそらくかなりある。
この痛みは琢磨のペニスが大きいせいだ。
しかしそんなことは言いたくなかった。
言いたくなかったから、とりあえずうなずいた。
「そうなんだ。だったら少し優しくしてあげるね」
琢磨は弘樹の表情をうかがいながら、ゆっくり腰を動かした。
身体の体勢を変えるようにして突いてきた。
時々すごく感じるところにあたった。
そのときには少し艶っぽい声が出た。
琢磨はそれで弘樹の感じるところを理解したらしい。
琢磨は弘樹の感じる箇所を探り当てて的確にそこを突いてくる。
今まで感じたことのないほどの快感だった。
琢磨の動きがいつの間にか荒々しくなっていた。
弘樹は狂ったように叫んだ。
そのときにはすでに痛みなんかなく、快感だけを感じていた。
「早く…。早く来て………」
「まだまだ」
琢磨がガンガン突いた。
弘樹は時間の感覚すらなくなってきた。
おかしくなってしまいそう。
そんな意識だけが頭にあった。

熱いものが身体の中に放たれた。
その瞬間完全に意識が飛んだ。
セックスってこんなにすごいものだったんだ。
そう感じる一方、浮気したことに虚しさを感じていた。

「茉奈ちゃん、茉奈ちゃん」
耳元で誰かの声がする。
弘樹はようやく気がついた。
「いっちゃった?」
弘樹は顔が赤くなるのが分かった。
「俺も気持ちよかったよ。茉奈ちゃんって本当に可愛いし」
そしておでこにキスされた。
「でも少しだけいいかな」
何を言われるんだろう?
弘樹はまだはっきりしない頭で考えた。
「茉奈ちゃんって完全に受身なんだよ。女性はただ抱かれてるだけじゃなく、もっと自分から腰を振ったり、意識してあそこを締めたりしないと」
女性はただただ抱かれてさえいればいいと思っていた。
それで充分感じることができるし、茉奈だって満足そうな顔をしていた、はずだ。
「谷岡だって男だから、きっとそんなところに物足りなさを感じたんじゃないかな。あいつと仲直りしたら、もっと自分から積極的になったらいいと思うよ。そうすればあいつだって、自分のそばに素晴らしい女性がいることを再確認するんじゃないかな。浮気相手の俺がえらそうに言うことじゃないかもしれないけど、さ」
そう言いながら、琢磨はベッドから出て、服を着始めた。
「ここのお金は払っておく。茉奈ちゃんはゆっくり休んでから帰るほうがいい。たまにはあいつにヤキモチを妬かせてやればいいんだ。もちろんまた相手してくれれば嬉しいけどね」
そんな軽口を叩いて出て行った。

琢磨に抱かれたことによって、自分のほうも茉奈を裏切ってしまったことになった。
それはそれで後悔がないと言えば嘘になる。
そんな琢磨とセックスしたときに感じた虚しさはなくなっていた。
少なくとも何となく気持ちが軽くなったのは事実だ。
それは琢磨が言ってくれた言葉が大きかった。

琢磨に言われた通り、弘樹は一晩くらい外泊してやろうと思った。
身体も疲れているし、早く寝てやろう。
そう思って、目をつぶった。
しかし一人になると、少しずつ寂しさに襲われた。
すぐに茉奈に会いたい。
そんな考えが浮かんでくると、いてもたってもいられなかった。
弘樹は急いでシャワーで身体を洗い流した。
浮気の痕跡をなくしてしまうためだ。
急いで服を着て、チェックアウトをした。
琢磨は言葉通り精算を済ませてくれていた。
ホテルを出て、すぐ近くに停まっていたタクシーをつかまえ、茉奈のもとへ急いだ。


茉奈はまだ起きていた。
「おかえり。遅かったんだね」
優しい言葉だった。
弘樹は胸に熱い物が湧き上がってくるのを抑えられなかった。
弘樹は茉奈の胸に飛び込んだ。
「ごめんね」
弘樹の髪を撫でながら、茉奈が謝った。
「ううん、こっちこそ」
「こっちこそって?」
「ううん、何でもない」
弘樹は余計なことは言わないほうがいいと思ったのだ。
琢磨のことは秘密にしておこうと。

弘樹は茉奈の顔を真っ直ぐ見た。
「抱いて」
弘樹は自分の気持ちを素直に吐露した。
弘樹は茉奈に抱いて欲しかった。
琢磨に抱かれた痕跡を茉奈に綺麗にして欲しかった。

弘樹は自ら服を脱いだ。
そして茉奈の前に跪いた。
「有加にどうされたの?」
弘樹は茉奈を見上げて言った。
茉奈は何も言わなかった。

弘樹は茉奈のズボンをゆっくり下げた。
そしてブリーフからペニスを取り出した。
「な…何…するの!」
弘樹はペニスを銜えた。
茉奈は慌てたが、弘樹の行為をとめることはしなかった。
弘樹は歯をあてないように気をつけてフェラチオに努めた。
茉奈を見上げると茉奈と目が合った。
茉奈は恥ずかしそうに目を伏せた。
それでも気持ち良さそうだった。

「出すんだったら、出してもいいよ」
弘樹は口を窄めて、頭を前後に動かした。
「あ、もういいから。ベッドに行こ」
茉奈は無理やりやめさせると、弘樹の手を取って寝室に向かった。
そして弘樹をベッドに仰向けに寝させると、弘樹は茉奈の上に覆い被さった。
茉奈がいつものような前戯を始めた。
弘樹はいつもよりオーバー目に声をあげた。

「今度は私が上になる」
弘樹は茉奈と体勢を入れ替えた。
弘樹は茉奈の乳首を舌の先でつつくように刺激を与えた。
「ぁ…」
茉奈の口から小さな吐息が漏れた。
「気持ちいいでしょ」
弘樹自身、乳首が感じるのが分かって
舌で右と左の乳首に刺激を与えながら、ペニスの先を指の腹でなぞった。

次に顔を下半身に移動させ、再度ペニスに舌を這わせた。
特にカリの部分に念入りに舌の先を這わせた。
与えた刺激に対しピクピクと反応するペニスの動きが面白かった。
弘樹がフェラに励んでいると、茉奈の手が弘樹の頭にあてられた。
もっとして欲しい。
弘樹はそんなふうに感じた。
だから舌を這わせるだけじゃなく、銜えようとした。

しかし違った。
茉奈は弘樹の頭を力で放した。
そして体勢を再び入れ替えようとした。
しかし弘樹がそれを止めた。
「今日は私が上になるから」
弘樹は茉奈の腰の上に跨った。
そして膣口にペニスに先をあてがい、ゆっくりと腰を沈めていった。

騎乗位は初めてだった。
弘樹が腰を上下に動かした。
この体勢は自分で刺激される場所を調整できるのが良かった。
弘樹の口から甘い吐息が漏れた。
それでも意識してペニスを締めることを忘れなかった。
茉奈からも声が漏れた。
茉奈の手が伸びてきて、弘樹の胸を揉みながら、下から突いてきた。
長い抽送の後、茉奈が弘樹の中に熱いモノを放った。

「ねえ、有加より良かった?」
セックスの後、弘樹が聞いた。
「……ごめん」
「ううん、責めてるんじゃないの。セックスは両方が努力しないといけないと教えてくれた人がいるの」
「誰、それ?」
「ふふふ、内緒」

それから二人の絆はさらに強まった。
まさに雨降って地固まる、だ。
時々大学に行って有加の姿をみることもあったが、有加が近づいてくることもなくなった。
大学でも弘樹が妊娠していることが話題にのぼった。
それでも相手がはっきりしているので「おめでとう」と言われる程度だった。


妊娠39週目を迎えた。
世間は師走に入り、クリスマス気分に浮かれていた。
しかし、弘樹は大きなお腹を抱え、家でおとなしくしていた。
医者からはジッとせず動くよう言われていたが、お腹が大きいせいで腰がだるく、外に出る気になれなかったのだ。
もちろん外の寒さも無関係ではない。
それでも、この妊娠中に、家事にも慣れていた。
主婦としてひと通りの家事はこなせるようになっていた。
したがって、家から出なかったとは言え、家の中では食事の支度など普通に家事をこなしていた。
そして、晴れた午後には窓際に座って、生まれて来る子供のために産着を編んでいた。
出産の瞬間を待っていた。


ついに予定日を迎えた。
しかしまだ産まれる兆候はなかった。
実際病院に行っても「子宮口指1本分位だし、まだ産まれるって感じはありませんね」と言われる始末だった。

予定日から少しだけ遅れる程度だと年末年始に重なり、病院の体制も薄くなる。
それは避けたいなと思っていたら、予定日より2週間遅れてしまっていた。


1月7日になり、世間は正月休みから通常の生活に戻りつつあった。
この日の朝起きたときに、少し腰の重さを感じた。
もしかしたら今日なのかな?
そう思っていると痛みが襲ってきた。
いよいよ陣痛?
そう思ったが、痛みはすぐにひいていった。
そんな痛みが20分から30分おきに襲ってきた。
不安になり、病院に電話した。
「痛いと言っても、まだ大丈夫そうですね。規則的に10分おきくらいの痛みになって、痛くて痛くて話すのもつらくなってきたら、また連絡してくださいね」
そんな簡単な返事が返ってくるだけだった。

弘樹はいつ病院に行くことになってもいいように、シャワーで身体を綺麗にした。
そして入院のための準備していたバッグの中身を確認したりした。
食欲はなく、茉奈が作ってくれたおかずにも箸をつけなかった。
ただ少しくらいは食べないと、と思い、白いご飯だけは口に入れるよう頑張った。

夕方になり、痛みが短いときには10分を切る間隔でやってきた。
そろそろかなと思うと、30分くらい何ともなかったりで、まだまだ不規則な周期だった。
それでも家にいるのが不安だったので、病院に行こうと電話した。
しかし、相変わらず「もう少し頑張ってください」と言われた。

夜になり、日付が変わろうという時間になると、周期的に強い痛みがやってきた。
病院に電話して状況を説明すると「今から来てください」と言われた。
入院のためのバッグを持って、茉奈に呼んでもらったタクシーに乗り込んだ。
横にはもちろん茉奈も一緒だ。
茉奈が心配そうな顔で弘樹を見守っている。
弘樹は茉奈の手を握って、何とか痛みに耐えていた。

病院へ着くと、すぐに診察室に行き、医者の簡単な診察を受けた。
医者からはまだ子宮口はそれほど開いていないと言われたが、必死に痛いことを訴えると、陣痛室という部屋に連れて行かれた。
しかし、やはり陣痛は不規則なので、時間がかかると言われた。
「たぶん明日になると思うので、ご主人は一度帰ってもらってもいいんじゃない?」
助産師さんにそう言われたが、こんなところで一人きりになるのは嫌だ。
弘樹は何とか一緒にいてくれるよう頼んだ。
自然と涙が出てきた。

「それじゃご主人にも一緒にいてもらいましょうね」
助産師にそう言われ、ほっとした。
それでも不規則な痛みは続き、結局眠ることはできなかった。
茉奈も徹夜につきあってもらうことになってしまった。


朝になり、病院から朝食が出された。
しかし全然食べることができない。
「少しでも食べたほうがいいよ」
茉奈はそう言うが、とても食べられる状態ではなかった。

しばらくして医者が状況を見にきた。
子宮口はまだ4センチということだ。
「自然分娩だったらもう一晩過ごさないといけないかもしれないね。陣痛促進剤を使えば今日中に出産できるかもしれないけど」
そんな医者の言葉に弘樹は即座に「お願いします」と返事した。

しばらくすると点滴を打たれた。
これが陣痛促進剤らしい。
お腹には分娩監視装置をつけられ、陣痛の強さや胎児の様子を監視された。
痛みはどんどん強くなる。
そしてその間隔も徐々に周期的なものになっていった。
痛みで汗が出るが、周りの様子ではまだまだらしい。
赤ちゃんを産むってこんなに大変なんだ。
弘樹は全ての女性に対して畏敬の気持ちを感じずにはいられなかった。

医者が子宮口を柔らかくするための注射を打ってくれた。
しばらくすると「子宮口が8センチまで開いてるよ。あとちょっとだから頑張って」と言われた。

陣痛促進剤の量がかなり増えているようだ。
痛み以上に、かなりいきみたい感じがしてきた。
しかしいきもうとすると「まだいきまないで」と止められる。
すごく苦しい。
「もう産ませてください」
そう言っても、「まだ、まだ」と言われる。
本当につらい。
茉奈はずっと「頑張って」と手を握ってくれていた。

やがて医者から「よし、子宮口が全開になった。分娩室に行こう」と言われた。
やった!
やっと産める!
分娩室に連れて行かれ、分娩台に上がった。
茉奈は廊下で待つよう言われ、出ていった。

「陣痛が来たら、思い切りいきんで」
と言われたが、ずっと痛いので、ずっといきんでいた。
どれくらいいきんだか分からない。
もう痛みで朦朧となっていた。

「もう少し!頑張って!」
と言われ、思いっ切りいきんだ。

「オギャー」

壁の向こうで赤ちゃんの泣き声が聞こえた。
いつの間にか弘樹は廊下に立っていたのだ。
何がどうなったんだ?
ドアが開き看護師が出てきた。
「女の子でしたよ。とても安産でした」
弘樹は今の状況を理解できないで立ち尽くしていた。
ついさっきまで陣痛の痛みでおかしくなりそうな状態だった。
そんな中で必死にいきんでいた。
そしてやっと産まれるかというタイミングで廊下に立っていたのだ。
「お父さん、ホラ、可愛い女の子ですよ。抱いてあげてね」
弘樹は恐るおそるその赤ちゃんを抱いた。
元気な声で泣いているが、力を入れれば壊れてしまいそうだ。
「ほら、奥さんにも声をかけてあげて」
看護師に連れられるまま分娩室の中に入っていった。
ついさっきまでいた部屋だ。
そこに茉奈が疲れた顔で横たわっていた。
「出産ご苦労さん」
弘樹はそう声をかけた。
「元に戻っちゃったね」
茉奈が笑った。
「残念なの?」
「ううん、赤ちゃん、大事に育てるね」
「私も頑張るわね」
ついさっきまで茉奈として使っていた言葉遣いがつい口をついた。
二人は思わず笑ってしまった。

弘樹は産まれたばかりの娘を抱いた。
「可愛いな、我が子は。でも茉奈のまま子供を育てたかったな」
急に女の子になった幼なじみが現れ、ある日突然入れ替わった。
欲望のまま抱き合って、妊娠してしまった。
やっと母親になる覚悟ができ、ついには母親になることを楽しみだと考えられるようになっていたのに…。
弘樹は自分が母親でなくなったことがかなり悔しかったのだった。


《完》

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